はじめまして
更年期世代のヘルスコーチ
産婦人科医 あざま ゆきえ です。
このホームページの私は、
医療現場とは離れて
病気ではなくて
ひとりひとりの”ヒト”と
つながり活動する
あざまゆきえです。
私は、
カラダはAIも敵わない
超高性能の肉体と思っています。
一人でも多くの方が、
自分自身のカラダと調和して
私たちみんながそれぞれに持ち合わせている
素晴らしい治癒力や回復力を最大に活かして
そして、それぞれにもつ
能力や魂レベルから
本来の”自分”を
心地よく生きるサポートや応援のために発信しています。
ここでは自己紹介をしますね。
鹿児島生まれ 鹿児島育ち
45歳まで大好きな鹿児島で
大好きな家族や友人、仕事仲間とともに生活してきましたが、
思わぬ出会いがきっかけで、更年期時期より初めての関西暮らしをしています。
子供の頃から
植物や動物、自然が好きで、保護猫も一緒に暮らしています。
心温かい優しいものや人に触れることが何よりの癒しで
どちらかと言うと、都会より田舎が好き。
鹿児島弁の影響もありますか、おっとりペースに見えつつ
意外と根性のある薩摩おごじょです。
長女として生まれ、コツコツ努力家の父からは、
将来自分の足で立ち、自立して生きられるようにと教育され
特に勉強しなさい!とも言われない見守ってくれる母のもとの環境だったのは、
今思うと本当に幸せでした。
机に向かって勉強をすることが苦痛でもなく当たり前で
好きな科目はむしろ勉強が楽しく思う子供時代でした。
そして、学校の担任教諭にも恵まれ、
頑張れば褒めてくれるから、頑張る甲斐があり(笑)、
周りの優秀な同級生に必死についていくteen agerでは、
気がつけば医学の道に進んでいました。
なぜ、産婦人科医になったの?
よく聞かれるのだけれど、
大学入学して、まだ専門性をよく分かっていない頃から、
なぜかもうすでに決まっていたことのように
産婦人科に進むんだ…と感じていました。
医学部では全ての診療科を学び、現場も実習していくので、外科も脳外科も悩むほどに興味深かったけれども、実習を終えて、やはり私は産婦人科でやっていきたい、そんな気持ちが一層強くなり、迷いなくこの道を進みました。
思えば子供の頃は、コスメティシャンやエステティシャンに憧れていましたので、
女性が元気に明るく笑っている姿につながる仕事に興味を持っていたのかもしれません。
今でも、病気そのものを治癒するよりも
その人がいかに少しでも笑顔に幸せを感じられる時間を過ごせたならという思いが基本にあるので、この活動を諦めずにいるのかなと思っています。
大学生活は、初めて鹿児島の土地を離れて、山口県で6年間過ごしました。
山も海も身近な山口は、鹿児島と似ているものがあり、とても過ごしやすくて私にとって第2の故郷です。
山口県の大学には、九州からも関西、関東、東北、北海道と日本全国からの同級生が集まり、6年間で部活や実習でも縦横つながりの深いご縁ができ、
このままここに残って医師として仕事をしていきたいと、とてもとても悩んだのですが
ちょうど母が乳がん罹患(しかも進行性と申告を受け)を知ってからは、地元に戻る決意をして鹿児島大学病院で、産婦人科医として働きはじめました。
そのころの母の担当医からは、長くはないかもしれませんと、医学部生の私に説明してくれて、医学を学んだ私は気持ち半分覚悟はしていましたが、25年経過した今も母は元気です。
のちにこの母が実生活で取り組んだことが、今の私がみんなに発信しているカラダ作りにとってもとても大切な出来事となりました。
鹿児島は離島も多く、大学病院だけでなく県全体のさまざまな地方へ、時には宮崎県南部まで勤務に出ました。
特に初めの数年は、自宅ではほぼ眠るだけ、それ以外はほぼ病院にこもる生活の日々。
研修医の私には、知らないことばかりで、
緊張で怖いと思う暇もなく、楽しくてやりがいがありました。
自分の一言や選択が患者の回復に影響するかと思うと、毎日毎日、今日の手術の復習整理、明日の手術の予習や勉強、学会の準備、、、必死でしたが、
帰りたい!!!と思ったことは多々あったけれど
それを上回るほどのやりがいと、
新しい命が誕生する空間に立ち会えるなんとも言えない幸せな心地とで
positiveに過ごせていたのは若さと体力のおかげだったのかもしれません。
仲間がいたこともあり、職場はみんなが優しく熱心で勤勉なこともあって、辛いことや怖いこと(それはそれはたくさんあります)もあったけれど、それも全部含めて今の私の経験値、トータルすると楽しい記憶ばかり。
産婦人科医としての最初の大きな目標は
分娩に立ち会える一人の医師として、
少しでも知識や技術を身につけて独り立ちすること。
人生のペースは本当に人それぞれ。
実は、学生時代にお付き合いしていた彼と
卒業後に結婚、、、なんて贅沢な話もありましたが
医師として一人前になることに必死だった私は、専門医資格取得するまではと、そのご縁を失ってしまったのでした。
そんな私の周りは、結婚、妊娠、出産とメンバーが入れ替わり立ち替わりの中で、
専門医取得後は、意図せずしてキャリアウーマンのように仕事に没頭し、
現場の仕事だけでなく、教育や役職などの役割も増えていきました。
そして、年齢を重ねていくと、
気持ちだけではやっていけない、連日の夜勤についていけない体力の衰えや疲労感とともに、
患者だけでなく、若い医師を育て見守る責任の大きな仕事の重みのおもしろささえ感じ、自分の体のことは後回しで昼に夜にと仕事に没頭する30代。
この地球に生まれる生と死というどちらにも縁のある環境で、緊張したり怖い思いをすることも多いのですが、いかに”生きる”かということを本当に身近に考えさせてもらうことも多く、楽しくて今でも大好きな仕事です。
でも、分娩に立ち会う仕事が大好きなのに、
帰れない、眠れない日が何日も続くと、
大好きなはずの分娩が嫌いになりそうになったこともありました。
人は身体がむしばまれると、
こんなにも好きと思っていたことがそうではなくなることがあるんだ、としみじみ感じました。
地方という人手不足も影響して
自分の担当の患者だけでなく、若手の医師の教育もしながら
帰宅できる夜も、ずっと気が張っている環境がたたったのか
40歳を迎えてからそれまでと同じように昼夜働き続けることにカラダが悲鳴をあげるようになりました。
私が辞めるとどうなってしまうの?
そんな気持ちも裏腹に、カラダが立ち上がらなくなっていきました。
そこで、患者には伝えていたのに
自分は無理しても大丈夫とどこか過信していた私は
やっと、仕事に合わせた生活ではなく、
自分のカラダを立て直すことを集中して始めたのでした。
方法は知ってる。だから、回復も早いものでした。
病院で治すものではなく、日頃の仕事に追われた食事や落ちた筋力、
神経を使って緊張しているカラダは冷えやすくなってきて
若い頃とは違いきちんとカラダを整える時間や空間を作らねば
寝てすぐ回復する時期をとうにすぎていました。
やり方はもう十分わかっていたのに、やっていなかっただけ。
でもやらないとこうなっちゃうよね、、というほどに体調崩して、日常繰り返す食事や筋力維持、冷えないカラダ作りがどんなに大切なことか身をもって証明したのでした。
このことは病院の治療ではどうにもならない
この大切な部分を本質的に伝えていきたいと
その頃から病院の仕事を少し減らして、残り時間をカラダ作りを伝えていく活動を始めました。
それから縁ありまして、40年以上住み慣れた鹿児島の地を離れて、
愛猫2匹(最後の最後まで寄り添うと決めた保護猫!)を連れて、
兵庫県に越してきて、今も大好きな産婦人科医の仕事を続けながら、病院では伝えられない、病院では介入できない、カラダを整える本質的な方法をセッションとしても提供しています。
そして、実は私は15年近く、心理学も学び、提供していることを話しますね。
生きとし生けるもの、見知らぬ人へもいつも優しい母の影響もあり、
子供の頃から困っている人や悩んでいる人を放っておけなかったり、頼まれると断れない性質でした。
おかげでそれが医師という仕事で活かされる部分もありました。
その反面、本音を言えずに限界まで我慢して辛くなったり、
他人に腹が立つ自分を嫌に思うようになったりし始めて、
そんな自分を変えたくなってきたことがきっかけで、
プライベートで心理学やカウンセリングを学び始めました。
本当に自分が好きになれなかったのです。
何より、医師になれたのも父のおかげとも思っているのに、
厳しい言動の父のことが嫌いで、そんな嫌いと思う自分もなんとかしたいと思っていた自分も嫌いでした。
父も嫌い、そんな自分も嫌い。
でもいつもニコニコしてしまう私は、生きづらかったですね〜。。。
仕事もプライベートも要求されることに、断ったら困るだろうと嫌と言えないのに、その要求が続くと相手に苛立ちを感じたり、断れない自分も好きになれなかったのです。
学びが好きな私は、心理学も楽しくて、自分が変わっていくのも感じました。
どんな人になりたいというよりも
見た目や言い聞かせではなくて
本心から心地よく幸せにいられたなら、、とただそれだけが目標でした。
心理学だけでなく、様々な哲学書もたくさん読みました。
どんなに狭くて小さなところで思い込んでいたのか
目から鱗の日々。
人生に悩みがなくなるわけではないですが、
そのおかげもあって、
嫌なことがあったとしても
感情に振り回されることなく
結果的にその出来事に感謝を感じてすぎていける今の私がいます。
そういえば、鹿児島勤務の頃、離島から数少ないフェリーで通院されていた高齢のがん患者の方が、私と話すことが楽しみと来てくださっていたことは、私にとっても励みでやりがいのある外来でした。
ここからは、少し運動習慣が今役立っている話。
小学校ではバドミントン、中学校、高校はソフトテニス。
(どんなものでもいいから運動部に入れと中学入学時に父に言われて、バドミントン部に入部しようとしたら、室内はやめなさい、外で運動をしなさい、年齢を重ねてもできるテニスにしなさいと結果的に最後は半強制的に入らされ、この時好きなものにと言ったのに、とブーたれて強烈に反抗したなぁ笑)
鹿児島県大会に走り幅跳びで出場したりと
身体を動かすことが好きなこともあり、
就職してからも、スポーツジムでヨガやピラティス、格闘技系フィットネスなど、
転勤するたびに近くのジムに通い、かれこれ25年以上ジムを活用して身体を動かすことを心がけています。
スポーツジムに通っていたおかげで、医療職場以外の友達もたくさんできました。
運動習慣が続いていた頃は、多少このことでは軸がぶれない身体だったと思います。
でも運動負荷が多くなりすぎた上に、ケア不足で膝を壊して(病院と自宅の行き来の発散もあり週に5日ほど仕事後にジム通っていました笑)、
しばらく運動できなくなって
だいぶ筋力や体力を落としてしまった時期もありました。
運動は過剰となっても足りなくても、身体がこたえてしまうことを身をもって経験しました。
何事も適度が一番!
そんな運動習慣のおかげもあり、スポーツジムでストレッチポールを知り、
場所や時間を問わずに幅広くセルフコンディショニングができることに魅了されて、
日本コアコンディショニング教会で、これまた面白くて学び続け
トレーナ資格や講師資格も取得して、今も毎日自分自身のメンテナンスだけでなく、更年期世代のヘルスケアとしても指導も続けています。
自分のカラダを色々と故障もしましたが、
自分自身が体験したからこそ、
どんなことで悩み、困っているのかも手に取るようにわかることは大きな経験値になったと今は思えています。
そして、医師になってもう一つずっと感じていた疑問があります。
サプリメントを飲むと調子がいいのはなんとなくわかるが、
みんなが同じように同じものを飲んでもいいものか、ずっと不思議に思っていました。
病院では学べないから、書籍や資料で調べたり学んだりしているうちに、やっと一番知りたかったことを知る機会に恵まれたのは、関西に来てからでした。
大好きな鹿児島を離れてきたけれど
関西にこなければつながるご縁ではなかったので、感謝ばかり。
どんな栄養素がどれくらい足りないときに、どれくらいサプリメントとして補充したらいか、一人一人必要とするサプリメントは違うよね!!
この疑問が今、解決して
不足している栄養素を補充した時の回復力は、自分だけでなく、たくさんの方でも体験して、学ぶべきものたどり着いた自分を褒めたいくらいです・笑
外来で診療していると、
もっと生活習慣を変えたら、とてもよくなりそうなのに…と思うことも多く、
でもそのことに耳を傾けてもらい、伝えるには時間も限界がありました。
私自身が仕事に偏りすぎて体調を崩して身体を立て直したり、
これまで興味で始めた学びが全部が繋がって、
食事や身体を動かす習慣や、思いや考え方の習慣を見直すことで、
本来持ち合わせている人の治癒力や回復力が活かされるということを
もっと伝えなくてはと思う気持ちが強くなりました。
医療も日進月歩。
10年前は当たり前が、禁忌にもなったりもします。
治療だけでは限界がある、
自分でできることを知ってもらえるように何かできないかな、
そして一人でも多くの方が自分の身体をより大切に、笑顔に過ごせるようになれたなら…
みんなそれぞれの大切な身体、
ポテンシャルを活かすも眠らせるも自分次第。
ご自分のからだと上手に過ごせて
一人でも多くの方が自分らしい笑顔で幸せに過ごせますように。
これからも
進化し続ける世の中と共に
私自身も知識や経験を更新しながら
活動してまいります。
資格*活動
医学博士
日本産科婦人科学会 専門医
日本女性医学学会認定 女性ヘルスケア専門医
日本医師会認定 産業医
日本産科婦人科学会 女性ヘルスケアアドバイザー
分子整合栄養医学(オーソモレキュラー)に基づく栄養アドバイザー
JCCA B級講師 アドバンストトレーナー
ビジョンクリエーション協会 心理セラピスト ファシリテーター
YUKINE クリスタルアカシックコンタクティ